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奥沢一郎・ドイツソーセージを極める

SHUMANKERL STUBEマイスター 奥沢 一郎

「マイスターになるまで8年かかりますが、良いですか?」油汗が吹き出てきてとても緊張しました。

「マイスターになるまで8年かかりますが、良いですか?」油汗が吹き出てきてとても緊張しました。

 私の出身は東京、世田谷区です。都会で育ちました。日本獣医畜産大学(現在の日本獣医生命科学大学)の畜産食品工学科を卒業しました。

 ハム・ソーセージ関係の仕事に進みたいという漠然とした夢はありましたが、卒業してすぐに、とりあえずドイツへ語学の勉強の為に行きました。

 元もと語学は苦手だったので苦労しましたが、ある日、自分の次へのステップを具体化する為に、ミュンヘンの食肉組合を訪ねました。

 そこで初めて、師弟制度について、詳しく教えてもらいました。ドイツでは、何かの職業につくとき、最初に経験するのが3年間の見習い期間です。師弟制度は、見習いの上に職人(5年間)、そしてマイスターと続きます。「マイスターになるまで8年かかりますが、良いですか?」と尋ねられ、油汗が吹き出てきてとても緊張したのを、今でも覚えています。

 一つの職業を身に着けるということを、大変甘く考えていたとその時思い知らされたのでした。でもここまできたら、とにかくやるしかないと思い、その場で決断し、紹介を受けることにしたのです。

 そこで紹介されたのは、ミュンヘンの中でも大きな食肉工場1社だけでした。個人商店のような小さな店では、ドイツ語の理解が不十分な外国人を受け入れるのは難しい、という理由からでした。その「大きい工場」というのは、ミュンヘンとその近郊に直営店をその当時90店舗持つVinzenzmurr(ビンツェンツムル )社です。すぐに電話をして面接を受け、これもその場で入社を決め、「見習い」として3年間の契約をしました。


見習い3年…飛び級2年で合格!

見習い3年…飛び級2年で合格!

 私は語学留学のビザで入国していたので労働ビザを得る手続きをする為に、いったん日本に帰国しました。外国人の労働に対してはとても厳しい時代でしたが、「職業訓練だけ」という条件で、労働ビザがもらえました。

 職業訓練というのは、見習いとして工場で働きながら、週1日職業学校に行き、他の肉屋で働いている見習いたちと一緒に勉強する期間です。ほとんどは15歳から18歳の若いドイツ人で、私だけが24歳でした。

 職業学校の授業は、専門の実技と理論、数学、ドイツ語(日本でいう国語)、社会、宗教です。大学と違って分かり易く授業は進むので、専門実技や理論は、とても良く分かりました。特に社会は、ドイツの国の仕組みが勉強できて、興味深い内容でした。宗教は、仏教徒ということで自習時間でした。数学は、簡単な計算が中心なのでいつも優等生でした。肉の歩留まり計算が出来れば良いのです。ただしドイツ語は、最後までまともな点数は取れませんでした。

 私の場合、大学ですでに食品工学を専攻していて、年齢も高いということで、2年生の途中で3年生に飛び級になりました。抜けている部分を3年生からノートを借りて、ひとりで勉強することになったので大変でしたが、工場のラボの主任の助けも借りて、独学で何とか頭に入れました。

 2年目の終わりには、職人試験を受け合格しました。ミュンヘン市の外国人局から、もう帰国するように通告されましたが、職業訓練期間を短縮できた真面目な日本人、ということが評価され、特別に半年だけ労働ビザが延長されました。


見習いから職人に。マイスターになるまでは帰らない!

見習いから職人に。マイスターになるまでは帰らない!

 見習いから職人になった頃は、知識も経験もまだまだ充分でなく、このまま日本に帰る気には、とてもなれませんでした。欲が出てきたのです。何とかマイスターになるまでドイツで働けないかと、日々自分の道を模索していました。日本総領事館にも、相談に行きましたが、「ドイツの国内のことだから、自分でなんとかしなさい。私たちは、内政干渉はしません。」と言われ、考えはしても何の変化もない日々が、過ぎていきました。

 そんなある日、ミュンヘンの食肉組合から勧められ、アウグスブルグにあるバイエルン州食肉組合の本部を訪ねました。このままマイスターになるまでドイツで働きたいと、自分の気持ちを伝えると、なんと組合が推薦状を書いてくれたのです。また同じ頃、オーバーバイエルン手工業会議所の副会長が、私の話を聞き、動いてくださったのです。その助力もあり、マイスターまでになるのであればという条件で、労働ビザがもらえました。

 ドイツの徒弟制度は、人々の人生の中でただの法律で定めた制度ではなく、誰でもが一人前になって生活できるようになる為の大切な伝統です。だからこそ、マイスターになるまでドイツで働きたいという熱意ある若者を、応援しようと思う気持ちになってくださったドイツ人の気質に大変感激しました。


職人として…仕事仲間から認められるまで

職人として…仕事仲間から認められるまで

 労働ビザがおりた私は、「大きな工場」ではなく、普通の個人経営の店で働きたいと思い、食肉組合の紹介でミュンヘンから南西25km離れたシュタルンベルグ湖湖畔のPocking(ペッキング)という町にあるSiegfried LUTZ(ジークフリード ルッツ)社に就職しました。ルッツさんは「生活習慣も違う東洋人が、うまく皆とやっていけるのか?」と、私を雇うことに3日間悩んだと、後から聞かされました。

 大きい工場での経験しかないので、ルッツさんの店での仕事は、慣れるまで大変でした。知らないことが多すぎてびっくりしましたが、とにかく早く皆に認めてもらいたかったので、誰よりも一生懸命たくさん働きました。最初は若い見習いにも怒られていましたが、必死になって仕事を覚えてきたら、怒っていた彼が、仕事仲間の中で一番最初に私を認めてくれました。3ヶ月たつ頃には、もし私が辞めたら職人が二人必要だと言われるようになり、内心うれしかったです。

 住み込みの生活は、私にとって初めてでしたが、ルッツさんも奥さんも、とても良い人たちで、子供たちや店の人たちにも仲良くしてもらい、まるで家族の一員のように過ごしました。


念願のマイスター取得!

念願のマイスター取得!

 1988年5月から3ヶ月間、アウグスブルグの食肉学校の第239回マイスター試験準備コースに参加して、念願のフライシャーマイスターの資格を取得しました。私は、自分の人生の中でこの3ヶ月ほど必死になって懸命に勉強したことはありません。合格した時の喜びは、今でもはっきり覚えています。

 そして最後に成績証明書を受け取った時、自分の目を疑いました。成績が上位3位の中に入っていたのでした。校長先生が、クラスの皆の前で私に贈ってくれた言葉があります。それは私が、「日本におけるドイツの伝統食文化の正統な継承者」であるということです。

 その「マイスターブリーフ(マイスターの免状)」を持って、1988年10月、自分のハム・ソーセージの店をつくるべく、帰国しました。


日本に帰国し 『 シュマンケル ステューベ 』 を開店してからも、自分の味がぶれないように、毎年ドイツの食肉コンテストに出品、入賞し続けています。

毎年挑戦!シュマンケル ステューベ




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